零れ落ちる前に。

その時々感じたことを、零れ落ちる前に。

「推し」という言葉への違和感と一解釈。

以前から長らく考えていたことを言語化する気にようやくなったので筆を執っている。

 

ハロプロを好きになってからはや3年の月日が流れたが、成人してからアイドル文化を知った人間のため、アイドル文化に対し違和感を持っている部分がいくつかある。その中でも特に大きいのが、「推し」という言葉への違和感だ。

 

 

わたしは2018年の『関ジャム』モーニング娘。特集と、『モーニング娘。誕生20周年記念コンサートツアー2018春~We are MORNING MUSUME。~ファイナル 尾形春水卒業スペシャル』の配信鑑賞を機にハロプロオタクとなった人間である。人生を辿ってみると、シンガーソングライターのYUIやフォークデュオのゆずなどの歌うたいに惹かれ、次にBase Ball Bear赤い公園東京事変といったロックバンドにハマり、所属したサークルの影響でビッグバンド編成やコンボ編成など様々なジャズミュージックに関心を持ち、巡り巡ってアイドル音楽に沼落ちした、というおかしな道を歩んで今に至る。そんな道程を経てアイドル文化を知ったからこそ、暗黙の了解として存在していた「推し」文化は奇妙なものに映った。

 

「推し」文化自体は勿論知っていて、AKB48が大流行していた頃、「アキバカルチャー」の一部として認識していた。厳密にはもっと以前から存在する言葉だし、実際のところ起源はどこにあるのかわからないのだが、少なくとも自分の印象としては秋葉原のオタク達が愛を注ぎたいアイドルに対して使い、周りのオタク達に表明する意味合いも込めて「推し」という言葉を使っている、という風に見えた。

 

この「表明」文化が、自分の心と「推し」という言葉にズレを感じたポイントの一つである。確かにSNSでプロフィールを作成する際、好きな俳優、アーティスト、文筆家などを周りに表明することで、コミュニティに入りやすくなるし、プロフィールとしてわかりやすい。しかし、他のオタクに自己紹介をする際、「誰推しですか?」という質問が真っ先にくるのは、アイドル文化を知らない自分にとって衝撃というか、奇妙な行為だった。何故一グループに一人だけ「推し」を決め、表明しなければいけないのか。箱推しの自分を「『推し』が決められない宙ぶらりんな状態」と罪悪感を抱かなければならず、「クソDD」と揶揄されなければならないのか。

 

なお、ジャニーズの「担当」文化はこの「表明」文化をより明確にしたものなのだろう。「〇〇担です」と表明することで、コミュニティに入ったり、逆に「同担拒否」と言われるように、コミュニティと自分のつながりを拒絶したりする。他担に対し、「わたしはあなたの担当を推すことはありません」と無害性を表明する効果もある。とあるアイドルが引退を表明したり、不祥事を起こしてしまった際に「〇〇担は大変だね...」と同情の声を寄せてしまうのは、根っこに「表明」文化があるからだ。

 

とはいえ、郷に入っては郷に従えと言うし、実際ハロプロ参入したての頃は「推し」文化への違和感は今ほど無かったから、当初は「羽賀朱音推し」もしくは「佐藤優樹推し」を表明していた(この時点でひとりに定まっていない)。徐々に「フィットしない」と感じ始めたのは、自分がハロメンに対して抱く感情が、恋愛感情ではないと自覚してきたことが関係していると思う。

 

 

ガチ恋」という言葉がある。アイドルのことを疑似恋愛対象ではなく、本気で好きになってしまう状態を指すアイドル用語だ。主に男性オタクから女性アイドルへ、女性オタクから男性アイドルへ向けられるものだと思われがちだが、同性アイドルに対して「ガチ恋」する同性オタクも多く存在する。業の深い感情を「推し」に対して向けたことのあるアイドルオタクは、これは「ガチ恋」なのだろうか、と悩んだことがあるだろう。

 

ガチ恋」よりも軽度な推し方が、アイドルとの恋愛を妄想して楽しむ疑似恋愛である。これはどちらかというとゲーム的な感覚で、実際に叶わないとわかっていながらも、「アイドルと付き合ったらどうなるか?」を妄想して欲求を満たす。アイドルは疑似恋愛を商売としている側面があるので、運営側が企画として「妄想ゲーム」を提供することもたくさんある。ライブパフォーマンスでは露骨に疑似恋愛を打ち出すことの少ないハロプロも、FCイベントではそれを意識したミニゲームを毎回といっていいほど提供しているし、疑似恋愛がファンタジックにパッケージングされたスマイレージカントリー・ガールズといったアイドルも過去に存在した。

 

わたしは「ガチ恋」勢ではないが、疑似恋愛を全くしなかったわけではない。というか楽しく受け入れているオタクである。FCイベントの罰ゲームで「キュンとする一言」をアイドルが言わされている場面でニヤニヤが止まらなかった経験は往々にしてあるし、カントリー・ガールズのファンタジーとして完璧に作り込まれたアイドル性に心惹かれキュンキュンしたことだってある。だから疑似恋愛否定派ではない。

 

しかし、「ハロメンに何故惹かれるのか?」を冷静に考えてみたところ、疑似恋愛感情とは全く結びつかなかった。彼女らの「人間性」にただただ惹かれたのだ。時に傷つきながらもストイックに自分を磨き、自身やグループのスキルアップのために努力を怠らず、性格を変えるため、もしくは受け入れるために日々自分と向き合い続ける。ジョジョ風に言えば「黄金の精神」を持ち合わせている彼女らの姿に、性別年齢関係なく尊敬の念を持ったのである。現役として活躍する51名全員を、「なりたい人物像」として見ている感じ。

 

だから、恋愛のように「たったひとりを好きになる」ことはできないし、心を引き裂いてまで単推しを決めることはできない。もちろん恋愛にもたったひとりに決められないケースはあるが、大抵の場合は「絞る」ものだと思う。「絞る」ことができないのは、理想像がいくつも存在するからなのである。

 

なお、尊敬の念を抱くことと、アイドルを偶像崇拝することもまた微妙に異なる。和田彩花さんがファンに対して「神格化してほしくない」と発言したことがあるが、偶像崇拝してしまうとアイドルーファン間のコミュニケーションが相互的なものではなく、アイドル→ファンの一方的なものになってしまう。ファンからアイドルにかけられる言葉が全肯定一択になってしまうのはあまり健康的ではない、という考え方は納得である。生き方や思想面に尊敬の念は抱きつつも、神格化し、盲目的に追いかけることはしたくない。(これは「アイドルを誹謗中傷してもいい」という考え方とは一切接続しないもので、「アイドルへの肯定は応援に繋がる」という考え方と矛盾しないものである、と一応注意書き。要は「私は〇〇だと思います」という発信に対して、「〇〇ちゃんがそう思うならそうだよね!」と全肯定するのは、アイドルにとってもファンにとっても健康的ではない場合があるという意味である。とはいえ、全肯定を求めるアイドルも中にはいると思うし、ケースバイケースだが)

 

 

ここまで、①「表明」文化への違和感、②疑似恋愛感情を持たない自分、という二つの側面から「推し」という言葉がフィットしない理由を書き連ねてきたが、これらとはまた切り口の異なる第三の理由が、「言葉が大きくなりすぎた」という点である。

 

NHKの人気番組「あさイチ」でコーナー化してしまうほどに、市民権を得てしまった「推し」。アイドル文化が軽視されていた00年代からの道程を引きのカメラで見ると、奇妙に曲がりくねったレールが映るはずだ。「オタク」「推し」「沼」*1といった言葉たちが普遍的に受け入れられていることは、宇佐見りん氏の『推し、燃ゆ』が芥川賞を受賞したことや、映画『花束みたいな恋をした』のヒットからも明らかである。

 

日本で生きる人間の多くが年齢問わず「推し」を持つようになった現代で、誰かを好きになった時に「推しができた」と表現するのは当然のことだと思う。しかし、言葉の起源や文脈を知らず、無批判に使ってしまっていいのだろうか。ただただ消費してしまっていいのだろうか。いま「『推し』って言葉があんまりフィットしないです」と表明したら叩かれそうな気がする。言葉がデカくなりすぎると、言葉を発する人が意識しなくとも、同調圧力になり得る。「『推し』がいないなんておかしい」みたいな空気ができ、その空気に加担する言葉に変貌するのなら、そうなる前に「使わない」という選択をし、土俵から降りたいのである。

 

なお、「フィットしないから使わない」というあり方を知ったのは、生湯葉シホさんの発言から。この方はあるミュージシャンに対して熱烈な愛を注いでいるし、『推し、燃ゆ』に対しても首がもげるほどの同意を表していたにもかかわらず、「自分の応援の仕方に『推し』という言葉はフィットしないから言わなくなった」とスタンスを示していた。野地洋介さんの「はやり言葉を何も考えずに使ってしまうことは危険」という文脈からこの話が出てきており、その辺りの二人の視座に非常に救われたのでもしよければ聞いてみてください。(下記リンク先の40:20くらいから。ただ、文脈を捉えて聞いた方がいいので、余裕があれば最初から聞いてほしいです)

 

open.spotify.com

 

 

...と「推し」に対して批判的な目線を向けておいてなんだが、「『推し』と言ってもいいのではないか?」という人はわたしにも存在する。わたしは元こぶしファクトリー野村みな美さんのことがスキル面・人間面共に大好きなのだが、彼女に対して「推し」という言葉を使っていいのかどうか、こぶしファクトリーが解散してからも悩んでいた(過去のブログで「推し」と言っていたとしたら、「便利だしいいや」という感覚で使っているのだと思う)

 

しかし、解散して約1年後の彼女の誕生日に、ケーキとアクリルスタンドを机に並べて写真を撮り、「#野村みな美生誕祭」というハッシュタグをつけてツイートし、タグをパブサして画像保存してから寝た日の翌日、多幸感に包まれながらすっきりと目覚めたのである。仕事で精神がやられ寝不足が続いていた時期だったので、久々に快眠できたことに驚いた。野村みな美さんをたくさん思ったことが快眠に繋がったのだと解釈してツイートしようとしたところ、なんの違和感もなく彼女を「推し」と認めることができた。

 

 

 「推し」と自分がフィットする瞬間が訪れたのだが、何故彼女に対して使うことができたのかはまだはっきりと言語化できる自信がない。そのため「言ってもいいのではないか?」に留まっている。断片的に書くとすれば、「無条件に救ってくれた人だから」だろうか。でもそれだと「神格化」と結びついてしまうような気がするし、とあるジャニーズオタクの「自担」の解釈に近いようにも思える。差別化できるところがあるとすれば、「自分の人生を賭して応援したい人」に野村みな美さんは当てはまらないということ。バスツアーへの参加を通して、こぶしファクトリーの5人に疑似友情的な感情を抱いた経験と関係しているのかもしれない。「道は違えど、あいつが頑張ってるなら自分も頑張れる」的な。う~んでもそれは広瀬彩海さんに当てはまってて、野村みな美さんは「ただただ健やかに過ごしてほしい」という思いがあるから違うかなあ(以下略)

 

 

snow1024y.hatenablog.com

 

 

このように、「推し」という言葉への違和感を持ちながら、「使いたい人もいる」というところで揺れ動いている。実際オタクのコミュニティを指して「〇〇推しは信頼できる」ということもあるし、自分自身の表明以外であれば無批判に使ってしまう。また、「誰推しですか?」と聞かれてわざわざ「いや、推しという言葉は...(ゴニョゴニョ)」と続けるような面倒臭いコミュニケーションも取りたくない。非常にあいまいでわかりにくい。何も考えずに「推し」文化に迎合した方が楽だと思う。

 

それでも、フィットしないと思ったなら使いたくないし、「推し」ブームが生んだ同調圧力とか消費の目線とは切り離していきたい。好きな人に対して、その人は「推し」と呼びたい存在なのかを一個一個考えていきたい。「推し」と思ったならば、何故その人を「推し」と思ったのか解きほぐしてみたい。それが、わたしの「推し」文化との向き合い方である。

 

 

 

最後に、自分には無かった視点を取り入れて終わろうと思う。以前広瀬彩海さんがインスタライブで推しの野元空さんについて語っていたとき、「『好き』って伝えると重たい感情として伝わってしまうかもしれないから、『推し』という言葉でフランクに伝えた方が良い」という旨の発言をされていた。「推し」はむしろ「重たい感情」を乗せてぶつける言葉だと思っていたから、真逆の捉え方をしているのだと知り驚いた。Twitterのフォロワーさんからも「『好きな人』と呼ぶ方が照れがある」という意見を聞き、愛を軽いものとして偽装するために「推し」という場合もあるのか…という気づきを得た。推しを持つ人たちが「推し」をどのような概念として捉えているのか興味があるし、この記事を読んで呟いてくれる人がいたらいいな〜と思う。よければ是非、考えてみてください。

 

 

f:id:exloyks:20201230231725j:plain

 

 

*1:ちなみに「沼」という言葉は喩えとして好きなので好んで使っています