昨年からぼちぼち読んできた本がある。正木香子さんの『文字の食卓』。ここには、自らの記憶を掘り起こす鍵がたくさん眠っていた。
文字と食卓。この2つの単語を結びつけて考える人はきっと少ない。文字は「書くもの」かつ「読むもの」であり、「食べるもの」ではないからだ。だけど、正木氏は、文字を食べ物を自らの記憶によって紐付け、次々と味わっていった。著者の後を追って食卓に並んだ文字を食すとき、確かに、と納得している自分がいた。新たな世界が見えた読後感だった。
この本で紹介される文字というのは、今一番よく目にするデジタルフォントではなく、「写植」と呼ばれる印刷技術による書体が主である。文字の種類を気にすることは、WordやExcelを触る際に〈明朝体〉を選ぶか〈MS ゴシック〉を選ぶか...と考える時くらいだ。著者のいう「写植」の正式名称は、どれも初めて聞く固有名詞だった。だが、それらの文字が使われている書籍や雑誌名を聞くと、いつかの記憶と結びついて腑に落ちた。
例えば、著者が「チューインガムの文字」と評する〈石井細明朝ニュースタイル〉。写植会社の「写研」にて、1950年代に開発された写植用文字だそうだ*1。著者はこの文字について以下のように語っている。
どことなく粘り気のある線の丸みと、きびきびとしたリズムが、言葉に特別な手触りを与えていて、自分の指紋をこっそりつけたような気持ちになる。
(p11)
このような特徴を持つ文字が使われている書籍として挙げられたのが、『だれも知らない小さな国』(コロボックル物語①)とか、『エルマーのぼうけん』、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』、谷川俊太郎の『みみをすます』、『めぞん一刻』である。〈石井細明朝ニュースタイル〉で書かれた文章を引用としてここに貼ることができないのは心苦しいが、もしいずれかの書籍を持っている方がいれば、改めて読んでみてほしい。この中で私は特に『エルマーのぼうけん』の文字表記を見た瞬間、幼き頃の記憶の扉が開かれた。
エルマー少年の大冒険へのワクワク感。幼き日、目の前にどんどん広がっていく世界に興奮していた時の感覚を、私の頭はうっすらながら覚えていた。ひらがなとカタカナによって施され、独特の行間で児童でも読みやすいあの本は〈石井細明朝ニュースタイル〉という名の写植が使われたものだった。あの未知への喜びは、文章の内容だけでなく、文字そのものによって与えられたものでもあったのだ。
この項を読んだ時、著者の感性だけに頼らず、自分なりにも味わってみたいと思い、感想を残していた。「丸みを帯びているけど少し硬い。「と」の一画目の角度や、「も」や「な」など、行書っぽくなっている点が好き。丸みと角のバランス感や、踊るような緩急が癖になる」。著者ほど感性豊かには書けないし、完全に一字一句への感想になってしまっている。だが、文章の中身だけでなく、文字そのものの特徴の面白さや、文字が文章に与える力に気が付いたのは発見だ。20年近く生きてきてそれなりに本は読んできたけど、こんな新鮮な発見はなかなかない。
心の奥底で密やかにざわめく気持ち。「わたし」にすら見分けのつかないその揺らぎを、丁寧にすくいあげ、識別し、温度の違いを正確に伝えること。それはほんとうに奇跡としかいいようがなくて、そのことこそが書体の力なのだと思う。
(p18)
自身の記憶を辿りながら文字のありかたを描写する際の著者の文章表現も面白い。「炊きたてごはんの文字」、「湯気の文字」、「アイスクリームの文字」、「微炭酸の文字」、「塩の文字」......。どの項も惹かれる章題ばかりで、中身も感心するエッセイばかり。実はこの『文字の食卓』は、元々Webサイトはじまりで、一部の文字については本家本元から読むことができる。
けれど、美しい書体には、なつかしい香りや味覚と同じように、「今、ここ」ではない場所へ心を導いてくれるすばらしい効能があります。
たとえば街の路地裏で、古い看板の文字をふと目にしたとき。
旅先のホテルで、カフェのメニューをひらいたとき。
忘れかけていたあの本を、夢中で読んでいたころの遠い記憶が、そこに描かれていた人生や物語とともに、一瞬でたたきおこされる——。
遠い記憶がたたきおこされる感覚。先ほどの『エルマーのぼうけん』以外にも、ある箇所で味わうこととなった。「給食の文字」こと〈光村教科書体〉。読んで字のごとく、光村教科書に使われる字体である。
10年も前のことなので、現在の表紙はすっかり変わってしまったと思うのだが(あんまり覚えてないけど)、小学6年生の国語の教科書には今でも「カレーライス」と「やまなし」が掲載されているようだ。他は題名を見ても記憶とまったく結びつかないけれど、「やまなし」に関しては授業内容も記憶している。苦い思い出とともに。
小6の担任になった先生はちょうどその年に異動してきた方で、白髪交じりでガタイの良いおじいちゃん。初見の印象どおりめちゃくちゃ厳しい方で、私は物凄く恐れていたことを覚えている。
先生の一番の特徴は、授業形式がオリジナリティに溢れまくっていること。国語、算数の授業において、「答えを求めない」ことを徹底して求めてきた。
例えば算数の授業。普通だったら、公式を覚えてください→問題を解いてください→テストします、の繰り返しである。小学校の算数は特に、暗記で事足りる教化だった。青い縦長の算数ドリルを黙々と解くだけで乗り切れる授業は、成績優秀だった私にとって一番やる気の出る教科だった。小学校における成績優秀なんて「市販のテストを解ける」だけで実際大した価値はないのだけれど、当時の視野の狭い私はそれだけで天狗になっていた。
だがこの先生の授業は、これまでの常識を覆す衝撃的なものだった。「この公式が成り立つ理由を考えましょう」。これを3~5回にかけて行うのだ。そのお題について個人、グループワークで考え、皆の前で発表し、議論する。大学でやりそうな質の高い内容だ。思考力が試される中で「市販のテストを解ける」能力しか無い私は何の解も出せずに震えているだけだった。何でも絶対の答えを欲しがる愚かな天狗の鼻を、先生はボキボキへし折った。ここで「頑張ってみよう」となればいいんだけど、悲しいかな、結局私はこの後も逃げ続けて何の成果も得られませんでした......。
その特殊形態は、国語の授業でも勿論用いられた。印象的だったのが、「やまなし」の授業である。国語の問題で普遍的に問われるような「なぜ彼はこのような行動をしたのでしょうか」といった問いに対し、テストにおける正解ではなく、それぞれの考えをもって答えを導く。それが何問かにわたって繰り返され、疲弊してきたところに、最強のラスボスが現れた。
「クラムボンとはなにか?」
宮沢賢治本人でさえ、答えを明かさなかった問い。正解なんてものは、賢治の頭の中にしか存在しない。テストには絶対出ない問題だ。思考力、想像力が問われる究極の問いに頭がパンクした。正解大好き少年の心はここで完全に折れたのであった。
「給食の文字」こと〈光村教科書体〉によって書かれた「やまなし」。皆が漢字ドリルで何度もなぞり書きしたであろうあの丸っぽい文字で書かれた「クラムボン」。かぷかぷ笑う謎の存在と、彼を形作る文字を見た瞬間、あの日の教室にタイムスリップし、後悔した。
何故あの時、「こういう楽しみ方こそが国語なんだ」と気が付けなかったんだろう。
豊かな感性。自由な想像力。幼き日に『エルマーのぼうけん』を楽しんだ時から、6年強の学校生活を経て、いつの間にか正解を求めるだけのつまらない奴になっていた。その後遺症は、中学校でも引き摺り、間違っていたことに気が付くまで時間がかかった。今でもその余波は残っているように思う。周りの同調圧力のせい、というのは言い訳にすぎないけれど、周りに合わせようと必死になっている内に、大切なことを失っていた。その曇った目では、「クラムボン」をちゃんと見つめることもできなかった。
もし過去に戻ることができたならば、あの日の授業をもう一度受けてみたい。自由な発想で、「クラムボン」を見つめてみたい。先生の褒め言葉やただひとつの正解がゴールじゃないんだってことに気付いた状態で、精一杯楽しみたいんだ。それこそが国語の授業を受ける本当の意味だと思う。
かなり話が脱線してしまった。『文字の食卓』はこのように、文字を味わいながら記憶を辿っていくためのコンテンツだと思う。著者もデザイン本ではなく「ごく私的な、世界にひとつだけの書体見本帳」といっている通り、書体の図鑑とは別物なのである。だからこそ、自由な発想が許される。著者の様々な体験が、文字によって呼び起こされ、気ままに記されている。そんな素敵な空間にいたら、読み手の私も「自由でいいんだよ」と言われている気がしてならない。
今回出会った「文字を味わう」という体験。そこから記憶をめぐっていく楽しさ。洗い出されたあの日の後悔によって、一歩前に進めたような気がする。
【参考】
松岡正剛氏のブックナビゲーションサイト、『松岡正剛の千夜千冊』。この本の視点の新しさについて詳細に解説されている。
「ユリイカ」2020年2月号(青土社)「書体の世界」特集に寄稿させていただきました。気になる目次が並びますが、私も「ユリイカ」でしか語れない話を書かせていただいて、とても有難く思っています。多くの方にお読みいただけると嬉しいです!https://t.co/gKdWVPTnpN pic.twitter.com/GnciJlzjSg
— 文字の食卓 (@mojisyoku) 2020年1月29日
「文字の食卓」は現在も活動中。「ユリイカ」最新号で特集に寄稿しているそうです。読まなきゃ。
*1:こちらを参照。桂光亮月氏という写植オタクの方のサイトで、著者も制作にかなり役立てたらしい。亮月製作所*書体のはなし・石井中明朝体