零れ落ちる前に。

その時々感じたことを、零れ落ちる前に。

一人称のおはなし。

ブログを書いていると、記事によって一人称が变化する。語感が良いとか、勢いが出るとか、自分の素を出しやすいとか、様々な理由をもって、じぶんのかたちがころころと変化するのだ。

 

 

「私」の時、私は少しじぶんを偽っているように思う。ここは公共の場で、私は誰かに向かってプレゼンをしているんだ。視界に映るのはあくまで文字の羅列なのだけれど、何となく襟を正し、背筋をぴんと張っているじぶんがいる。

 

現実世界にフィールドを移しても、やはり「私」が登場するのはフォーマルな場である。目上の方やお客様、そういった「じぶんを完全に曝け出してはいけない場所」で、じぶんを偽るために現れる。

 

偽る、といっても悪い意味じゃない。一人称は適材適所だ。冠婚葬祭で礼服を着るように、わたしは「私」を着る。テキスト上に現れる「私」は礼服ほどカッチリしているわけではないのだが、心持ちとしてはそんな感じだ。

 

今登場した「わたし」はややニュアンスが違う。「私」と比べてやわらかく、素を出しやすい。曝け出すというよりは、そこに居る、という感じ。清らかさ、やさしさ、あたたかさ、そんなニュアンスをもった素敵な一人称に見える。今のところあまり使い分けたことがないから、実態はわからないけれど。

 

次は「僕」。「僕」もまた、じぶんを偽っている。偽るというより、演じるというのが正しいだろうか。少し背伸びして、じぶんとはちょっと違うなにかを演じる時に使っている気がする。

 

それと、「僕」はテンポが良い。リズミカルに、ザクザクと突き進むことができる。だから、なにかを演じながらも、時折どろっとした素を混ぜることができる。「僕」にはなんだか、無敵感がある。

 

「ぼく」も全然使わない。急に心が幼くなるからだ。内側も外側もイコールで結ばれ、なにひとつ偽る"ことができない"じぶん。でも、結局使うことになったら、偽る"ことができない"じぶんを演じることになるのだろうか。訳がわからない。

 

そして、「俺」。「俺」は正直だが危険だ。偽りも演技もないが、わがままで暴力的。テキストにはなるべく出したくない存在だが、たまに心の底から叫びたい衝動が現れると、真っ先に顔を出す。

 

「俺」は、どろっとした自我がたっぷり詰まった箱だ。もし手元が狂って、かやしてしまったら大変なことになる。落とさないように、丁重に扱わないと、自制が効かなくなってしまう。

 

「おれ」については存在を認識したことさえないのでノータッチ。最後は「自分」と「じぶん」について。

 

「自分」は「私」以上に名刺的な役割があるように思う。誰かに差し出すとき、いつだって使い勝手が良い。「私」を使う時のような照れもない。だからじぶんは、そこそこの頻度で「自分」を着る。

 

そして「じぶん」。ここまででかなり登場した。普段は使わない。何も着ていないじぶんを表現するには、「じぶん」を使わざるを得なくなり、今日はじめて使った。「じぶん」はじぶんだ。素っ裸だ。まっさらだ。

 

 

 

***

 

なんてことを、今日は帰りの電車内で考えていた。残業続きの日々が落ち着いて、ここ2日連続で定時退社ができた。だが、慢性的な眠気と奥底に在る漠然とした不安のせいで、なんだか落ち着かない。すぐ帰路に立つことはできず、本屋を巡ったり、ぐるぐると駅を歩き回った後、この記事を書き殴った。

 

ん、「書き殴る」というのは少し違うか。殴ってない。すらすらと、流れるように綴った。平静の中から、感情がすっと湧き出てきた。湧き出てたものを、そのままここに流した。

 

一人称について考えてしまったのは、きっと眠れない夜に読んだこのテキストのせいだと思う。暗闇の中で覚醒してしまった熱い頭で受け止めた、鋭利な文章。で、結果眠れなくなった。

 

現象になりたい。現象。自分自身の連続性を失わせたい。自分のなかの何かが勝手に固定されていくのがどうにも気持ち悪い。私に会うたびに新しく私を「観測」し、そのたびに新しい存在としての私を行動で判断してほしい。だって変化するかもしれないから。

(中略)

今このエッセイでは筆者が日頃もっとも頻繁に使用するからという理由で「私」という一人称を使っているが、葛藤がある。「私」という響きはあまりにも行儀がよすぎるからだ。速度でいえば遅い。もっと素早く鋭く自我の杭を地面に突き立てるには、「私」ではかどが取れすぎていて何もかも足りない。じゃあ「俺」を使えばどうか? じっさい「俺」と自称することは間々ある。望む速度と鋭角にうまく合致するので使っていて気持ちがいい。しかし結局攻撃的に話すには「男性」の形を取らねばならないのかと思うとそれはそれで悔しい。さらに世間的では「一人称が俺の女」は「痛々しい存在」として認知されがちであり、そこにも葛藤がある。ニュートラルで素早く己を地層にぶっさせる攻撃的な一人称がほしい。何かいいのないですかね? ひとまずこの文章では自我の葛藤を説明したので、一人称は「私」に設定したまま続行しておこう。次回はまた変わるかもしれないが、気にせず読んでほしい。

There are many many alternatives. 道なら腐るほどある 第1回 現象になりたい | ele-king

 

 

この部分以外の文章を切り取ってしまうのは少々気が引けたが、今日の帰路で思考を巡らせた原因はこの部分にあるので許してください。リンク先の素晴らしい文章をそのままの鮮度で味わってください。無責任極まりないじぶんは、ああ、現象になりたい、連続性を失わせたい、と叫んでいます。喉が痛い。

 

眠たい。眠ろう。明日も、私わたし僕ぼく自分??俺じぶんとして、生きていくために。