零れ落ちる前に。

その時々感じたことを、零れ落ちる前に。

演劇女子部『眠れる森のビヨ』感想・考察。

こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロにて上演されたBEYOOOOONDSの主演舞台『眠れる森のビヨ』を2度鑑賞してきました。元々24日の公演のみ購入していたのですが、初日の話題沸騰ぶりを見て15日に当券チャレンジ。舞台のチケットはそこそこ高価なので迷いはありましたが、結果的に当券購入の判断は大正解でした。これまでのBEYOOOOONDSのイメージを覆す史上最高傑作。演劇女子部の歴史で見ても、最高到達点と言っても過言ではないのではないでしょうか。

 

考察しがいのある内容だったのでネタバレありきで書いていこうと思うのですが、今作は舞台の反響を見てか、三度目の緊急事態宣言を予測していたのか、シリーズ初の配信が決定しました。よって、これから鑑賞するという方は、配信後に読んでいただけますと幸いです。ただ、見る予定ないよって方、その判断は勿体無いです!!FCのみならず一般でも購入できますので、配信期間中にお時間がある方は、是非森ビヨを観ていただきたい。BEYOOOOONDSのことを知らなくても楽しんでいただけると思います。特に舞台オタクの皆様には、平井美葉という役者を、「劇団BEYOOOOONDS」というエンターテイメント集団を見つけていただきたいのです。どうぞよろしくお願いします。

(ていうかだらだら書いてたらあと販売時間が4時間切ってる!!これ読んだ人買ってね!!!)

 

 ・購入場所

HELLO! PROJECT STREAM ONLINE STORE」にて購入できます。会員登録は無料。下記リンク先より「眠れる森のビヨ」購入先にアクセス。

https://www.up-fc.jp/helloproject-stream/item_Detail.php?@DB_ID@=7

 

・販売期間

4/19(月)17時~4/30(金)24時←終了しました

 

・視聴期間

4/29(木祝)14時~5/1(土)14時←明日まで!!

 

・料金

4,500円(税込)

 

 

 

※以下ネタバレありの感想となります。未見の方はブラウザバック推奨。

 

 

 

 

画像 

 

 

 

 

Story

演劇部のヒカルは全国大会を目指し、仲間とともに今日も稽古に励む。
時々喧嘩もするけれど、最高の作品を目指して、僕たちは本気で青春する!
僕たちは今を生きてる・・!

眠れる森のビヨ | 演劇女子部

 

 

当初この文言を読んだときは公開されたビジュアルとの噛み合わなさに「何を言っているんだ?」と困惑しましたが、今読み返すと目が潤んで読めないマジック。舞台の内容を隠すためのフェイクなのか、担当者が適当だったのか、微妙に判断がつきづらい文章ですが、効果的に働いたと思います。

 

平井美葉さん演じるヒカルが所属する華山高校演劇部で繰り広げられる、熱くてキラキラした青春譚。しかし、ヒマリという存在を軸に、徐々に不穏な空気が漂い始め、やがて彼女の口からこの世界の真実が明かされる。その真実を知ったヒカルは世界から脱出しようとするも、劇部の皆に選択を迫られ...。ざっくり書き出すと非常にシンプルなストーリーで、舞台装置となる真実も真新しいものではありません。勘が良い人なら序盤で大筋に気付いてしまう。

 

それでも大きな感動を生んだのは、脚本と音楽がクライマックスへの道筋を丁寧に描き、その道筋を演者たちが真摯に歩んだからだと思います。 演技も歌も細やかで、ひとつひとつが心に響く。蓄積した感情が、終盤の一手で決壊する。カタルシスとはこういうものか、と納得した冷静になって思い返したときのことで、実際に鑑賞した時は号泣して俯瞰する余裕もありませんでした。物語と音楽と歌唱と演技が絡み合った瞬間のダイナミクス。ヒカルがブロック大会行きのバスに乗り込み、ツムギを問い詰めるシーンからの20分間は、いまのBEYOOOOONDSの最高到達点だと思いました。そして、この到達点を引き出したのは中島庸介さんの脚本・演出と和田俊輔さんの劇伴・歌唱曲。プロとプロのぶつかり合いで生まれたダイナミクスに心を揺さぶられました。

 

「展開に意外性が無くても感情を揺さぶられる」ってすごいことです。そこそこ察しが良いと、「あ~そういう展開ね」って気付いた時点で少し白けてしまう。だからどちらかというと、自分が泣かされる作品って「意外性」に揺さぶられるものが多くて。しかし『森ビヨ』の場合は、「さっきの布石はこうだよね」という確認作業を、確認作業と認識させる間もなく重い一発で殴ってくるから、こっちは「確認」を忘れて「没頭」してしまう。演出、音楽、演技が三味一体となってボディーブローをかましてくる。

 

舞台ではありませんが、映画『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』を観た時に近い感動を覚えました。この映画は日本映画あるあるの「彼女には秘密があった」パターンの作品ですが、彼女の秘密は中盤であっさり明かされ、劇中の登場人物もさして驚く素振りを見せません。いや、驚いてましたけど、他の映画と比べたら随分飲み込みが早い。だけど、そこから序盤に置いてきた数々の布石を拾い上げていく怒涛の展開に、理解していてもひたすら泣かされるのです。次々とデカい波が押し寄せ、「没頭」せざるを得なくなる。また、この作品は主人公、彼女、友人とたった3人を軸に動くシンプルさもポイントで、余計な情報にモヤモヤすることなく最後まで突き抜ける点も、『森ビヨ』に近いものを感じます。

 

また、BEYOOOOONDS12人全員が、歌唱面、演技面において全信頼を置かれている、と感じました。歌唱指導の新良エツ子さんも絶賛されていましたが(実はこのnoteを読んだのが当券購入に踏み切った一番の理由)中島庸介さんのギャグ少なめなアイドル演劇っぽくない脚本*1を演じ切れたのも、全員が「意見が言える」人たちだからなんだろうなあと。この後の考察では登場しないのですが、江口沙耶さんの山上や、一岡伶奈さんの浜田先輩とか、解釈がブレたら変になってしまいそうなのに、「山上」「浜田先輩」以外の何者にも見えないのってすごいですよ。オタクが考察したくなる余白も、あえて残してるんだろうなあと思います。

 

note.com

 

 

 

ヒマリのこと

ここからは考察まじりの感想。ヒマリ、ツムギ、ヒカルら主要キャラクターに着目して紐解いていきます。

 

今作のカギとなる島倉りかさん演じるヒマリ。彼女はヒカルの幼馴染で、通学時や図書室(ヒカルが脚本を書いてた場所。違ったらすいません)、屋上に現れます。その神出鬼没ぶりからヒカルに「幽霊みたい」と茶化されますが、この冗談が後の展開に大きく影響します。そんな特異点的存在であることを匂わせる彼女のモノローグには、時系列が一致していないのではないか?という「違和感」が残ります。彼女のモノローグを整理してみましょう。

 

一回目のモノローグは「眉間、しわ」のシーン。

 

ノローグ①

「余計なことをしてしまったな、とすぐに後悔した」

「一人っ子の私は、ヒカルを兄のように慕っていた。ヒカルが行く場所行く場所付いて周り、周囲の人たちは私たちを本当の兄弟のように思っただろう」

 

この直後の回想で、椅子の上に立って諭すヒカルと、駄々をこねるヒマリという風に、視覚的に身長差を出し、台詞で精神年齢の差を匂わせることで、ヒカルとヒマリは幼馴染だけど同じ年ではない、という布石が既に置かれています。このやり取りは実はバス事故当日の回想だと、終盤明らかになりました。

 

「余計なこと」というのは「ヒカルを励ましたこと」であり、励まされた彼がそのまま夢の中で劇部との青春を続けてしまうことへの危惧を感じ取ったからこその「後悔」なのではないかと。

 

ノローグ②

「あんなにわがままだった私によく付き合ってくれてたわよね。本当さ、いつも一緒だったよね、私たち。ごめんね。ありがとう。ありがとう、ヒカル」

 

心電図のSEをバックに「わがままだった私に」「一緒だったよね」と過去形で語る様子から、ヒカルの病室での一幕だと理解できます。しかしそうなると、①と矛盾します。前者は夢の中のヒカルと干渉してしまっており、現実のヒマリがヒカルの夢に意識的に接したことになってしまう。ここで私のヒマリ解釈を示しておきますと、「ヒカルの夢に干渉したヒマリは、現実のヒマリの『願い』が具現化した存在であり、現実のヒマリとは別個体である」説を推しています。

 

よって、先ほどの矛盾に対する解は、

 

a)①も②もヒマリ(願い)の言葉

b)①はヒマリ(現実)の言葉、②はヒマリ(願い)の言葉

 

の2パターンなのではないかと。b)を提示したのは、「後悔」しているモノローグでは心電図のSEが流れていないからです。ただ、心電図のSEがあるからといって、ヒマリ(願い)が語っていると取れなくもない。ヒマリ(現実)が語っている説を補強するのは、次のモノローグです。

 

ノローグ③

「ヒカルが演劇部に入ったと聞いた時、なんだか笑っちゃって。それまでは、演劇ってなんかこうすごく、ダサいものだと思ってたから」

「初めてヒカルが出るっていう舞台を観に行ってさ。なんかちょっと笑いにいこっかな~くらいのノリでね。そしたら、全然。全然イメージと違ってて!声がバーン!と飛んできて。汗とか唾とかすごくて。みんな必死でエネルギーがすごくて!...圧倒された」

「なんか、いいなあって。いいなあって、思ったのよ」

 

「この脚本嫌い」と突っぱねる場面の直前のモノローグですね。ショーコ、ユッコに一瞬干渉してしまったほどに、怒りを募らせている。しかし、怒っているはずなのに、モノローグの語り口は穏やかで、懐かしそうで、前後のシーンとちょっとズレている。このシーンで心電図のSEが流れているため、③はヒマリ(現実)の語りで、そうなると①も同じなのではないかと思いました。

 

 

以上のように、劇中でヒカルと対話しているヒマリ=ヒマリ(願い)で、ヒマリ(現実)はモノローグとラストシーンにのみ現れます。序盤のヒマリ(願い)は先程のように「後悔」しながらも、ヒカルに真実を伝えようとはしません。最初から動けば起こせたかもしれないのに。そんな彼女が焦り始めたのは、ヒカルが「ヒマリが起きない夢」を見た場面。ヒカルの頭に残る地響きと、ヒマリがずっと眠っていたこと。このイメージはヒマリ(現実)が知る事故と一致し、ヒカルが真実に近づき始めていることに気が付きます。

 

明確に動いたのは③の直後。ヒカルが書いた脚本のオチが、ヒカルの「目覚めたくない」という深層心理と結びついていることに気が付き、ヒカルの選択が誤らないように動き始めたのでしょう。

 

しかし、何故ヒマリ(現実)が認知していないというのに、ヒマリ(願い)の動きが活発になったのか。それは、彼女が現在、彼と同じく演劇部に所属している点と関係していると思います。③は、演劇部に入部したその日に眠るヒカルに対して語った言葉なんじゃないかと。やや強引ですが、「ヒカルに私の演劇を見てほしい」という思いが「願い」となり、永遠に目覚めないことを「幸せ」とするヒカルの選択を許せず、干渉することを決めたのだと解釈しています。

 

そして終盤。「真実」を匂わせ、手を差し伸べる場面。今度はモノローグではなく、歌で思いを吐露します。ヒマリ(願い)の思いが更に強くなったのは、ヒマリ(現実)の思いと呼応しているからではないでしょうか。ソロ曲は2パターンありますが、どちらの曲でもヒカルと再び歩むことを強く願っている。5年間待ち続け、当時と同じ年に追いついたいま、心が限界に来ていたのでしょう。ヒマリ(願い)は最初こそヒカルに明るく「青春」を説いていましたが、「真実」に近づいているならば起こしたい、掬い上げたいと気持ちが変わっていったのは、ヒマリ(現実)と関係があるように思うのです。

 

そうして「真実」の告白を試み、一度は失敗するも、ヒカルが折れることで伝えることができた。残酷な「真実」はヒカルを激しく動揺させたけれど、「願い」をまっすぐ伝えたことで、彼を導きました。しかし、ここで注意したいのは、「あとはあなたが決めて」と委ねているところ。「真実」が彼にとっての「幸せ」とは限らないから、「あなたが選んだ方が真実」と言い残して去ります。これはヒマリなりのやさしさであり、エゴでもあります。「真実を選んでね」と伝えた方が彼にとって楽なはずなのに、そうはしない。それは彼女があくまで「願い」だからでしょう。選択をするのはあくまで自分自身なのだと、ヒカルも自分でわかっている。この余地があるから、ツムギとのやり取りが余計に苦しくなります。 

 

最後に、ヒマリが投げかけた「また明日」という言葉。ヒカルの項で後述しますが、ヒマリはきっと、5年間毎日この言葉をかけていました。ヒカルをこの世界に繋ぎ止めたのは、生きている他者の存在。夢の中で「永遠になればいいな/夜が明けなきゃいいな」と歌い、過去に閉じこもっている彼を引っ張り出したのは、彼女の示した「未来」のお陰だと思います。

 

 

 

ツムギのこと

ヒカルの夢で意思を持つもう一人の存在が、前田こころさん演じるツムギ。 終盤の展開を思うと、他の部員にも意識はあったようですが、彼は人一倍ヒカルの目覚めを阻止したいと考えており、いくつか行動を起こします。

 

その起点となったのが、劇中劇『眠れる森の美女』のクライマックスをヒカルから提案される場面。「オーロラ姫がそのまま眠り続けた」オチの方がハッピーエンドなんじゃないか、という案に対し、最初はあまり意図を掴めなさそうだったのに、突然笑い出し、「僕も同じことを考えてた」と意見を変える。「僕ならきっと、『眠り続ける』を選択するだろうな」という台詞は、劇に対してではなく、ヒカルに対して言ったのだと思います。

 

バス事故の時唯一言葉を交わすことができたツムギは、「これ、夢かな?」「そうか。夢なら、じゃあ良かった」と事切れます。このやり取りがヒカルの呪いとなり、深層心理に「夢から醒めない方が『幸せ』」という価値観を植え付けました。脚本についてのやり取りをしている中で、ヒカルの深層心理に気付いたからこそ、ツムギは嬉々として同意したのでしょう。

 

なお、この脚本変更のやり取りは現実にもあったのか?華山高校演劇部の『眠れる森の美女』は「眠り続けた」オチだったのか?という点はどちらとも取れます。ただ、大好きな人たちに囲まれる人生を好む彼のことだから、現実でも同じオチを選んだんじゃないかと。夢の中のツムギは、現実でも起こったやり取りを反芻する中で、ヒカルの深層心理が反映されていることに気付いたから、その思いを強固にするために以下の行動を起こした...という解釈です。

 

その行動というのが3点。ここからはいずれも夢の中だけで起きた出来事と認識です。

 

ひとつはツムギの転校。青森県に引っ越さなくてはいけない、という突然の報告。後の展開にあまり関係なく、突拍子の無さも相まってやや「違和感」として残る場面でした。いずれ別れが来る、という現実を突きつけることで、ヒカルの「青春」をより「尊い」ものにしようとしたのではないでしょうか。

 

もうひとつは備品の破壊。これは劇中でツムギの仕業だと暴かれました。劇部との絆を強固なものにするために、3日でギリギリ直せる程度に壊しておいた。明らかに現実のツムギはやらない酷い所業です。

 

最後に、ヒマリの静止。干渉するヒマリを「邪魔だな」と敵視し、ハンドパワーで封じ込める。唐突なハンドパワーでしたが、単にヒカルの世界の住人が外の世界の住人を拒んだ、ということでしょうね。ただ、ヒマリの存在を感知できたのは、ツムギただ一人だった。その証拠は、少し前のシーンにあります。

 

ヒマリが「あの日ブロック大会には行けなかったんだよ」と告げ、言い合いになったシーンで、気を失ったヒカルに夢子、ノゾミが駆け寄りますが、ツムギだけが駆け寄りませんでした。二回目の鑑賞時、ツムギの行動が気になって注視していたところ、棒立ちになったツムギは見えないはずのヒマリを見て、驚いたような顔をしている...ように見えました。配信で見た時はあまりわからなかったので自信はないですが、きっとツムギはこの時、外からの干渉者の存在に気付いたのではないかと思います。そして、ヒマリとの絆を断ち切るために、打ち上げ後に青森への転校を告げ、「永遠になればいいな」の歌を歌い、「『幸せ』と手を繋ぐ」。こういった布石が、クライマックスに効いてきます。

 

「君はそれでいいの?」

「君が脚本で書いたんだろ?君が込めた『願い』だったんじゃないの」

「真実の話をしたいわけじゃないんだ僕たちは。何が君にとっての『幸せ』なのか。僕たちはそれが知りたい」

 

夢子と共に、ヒカル自身の「幸せ」について畳みかけるように問う。思い出の曲を持ち出し、訴えかける。この世界は永遠じゃないという「真実」を知ったからこそ、これまでの劇部とのやり取りがすべて痛みに変わり、ヒカルを惑わせます。ツムギには何の悪意もないからこそ、余計に苦しい。

 

ただ、少し脱線しますと、劇部も一枚岩ではなく、それぞれヒカルにどうしてほしいのか、考えが異なるのではないでしょうか。

 

例えばノゾミ。普段の彼女であれば、永遠を終わらせないために真っ先に「行くなよ、マジで」と訴えかけるはず。ですが彼女は劇部の中で一番落ち着いており、「じゃあ、私たちは悲しまないって?」「いなくなるのは悲しいだろ」という台詞にも、どこか諦めが滲んでいました。歌い出しの表情も晴れやかで、むしろヒカルに生きることを促そうとしている。歌い終わったあとも叫ぶことなく、ただ真っすぐ見据えているだけ。

 

きっとBEYOOOOODSの役者たちも、それぞれの思いを込めて演じていたんじゃないかな。そう思っていたら、ネネ役の小林萌花さんがそのようなことをブログに書いていました。

 

 私は今まで、

この世を去ったものは

生き残ったものに対して

 

「亡くなった人の分も生きて欲しい」と

願うものだと思っていました。

 

 

でも、それが全てではないのかもしれない

 

 

車椅子に乗ったヒカルを見ていて、

 

決して私たち劇部のみんなの分を

生きて欲しい、という気持ちは

ありませんでした。

 

そこに、ヒカルの幸せがあるとは限らないから。

 

むしろ、ヒカルに背負わせるものが

どれだけ大きいかを考えると

 

みんなで引き留めた時の気持ちが

亡くなった側の求めるものでもあるのかなと

感じたのです。

☘️今までで1番長いブログ。 小林萌花☘️ | BEYOOOOONDS SeasoningSオフィシャルブログ Powered by Ameba

 

ヒカルの夢の中なのに劇部のメンバー固有の意識はあったのか?と問われると難しいところですが、私としてはそれぞれに意思があったんじゃないかと解釈しています。だから、ヒカル目線ではあるけど皆生き生きとしているし、クライマックスは彼岸と此岸で向かい合っているように見える。一人ひとりに着目してみたら、新たな角度から『森ビヨ』の世界を知ることができるかもしれません。

 

 

ヒカルの選択

「真実」か、「夢」か。どちらがヒカルにとっての「幸せ」なのか。このまま目覚めなければ、「劇部の皆が全員死んだ」「自分だけが生き残った」という地獄のような現実から目を背け続けることができる。永遠に青春を続けることができる。

 

大きな選択を迫られたヒカルは「真実」を選びます。クライマックスの歌唱シーンを見る限り、彼の天秤は決して大きく傾いたわけじゃなさそうです。水平だった天秤がちょっとだけ「真実」に揺らいだだけ。「僕は!」と絶叫して頭を抱え、最後の答えを見せずに夢が終わったことから、「夢」が勝つ可能性も十分にありました。

 

それでも「真実」を取ったのは、ヒマリの呼びかけが強かったから。彼女は5年もの間、毎日ヒカルの病室を訪れました。ヒマリ視点に立つと、たとえ因果関係が無くとも、「自分が引き留めたことでヒカルが事故にあってしまったんだ」と責めてしまうのではないかと思うのですが、自責の念を差し引いても、ヒマリは純粋にヒカルのことが大好きで、恋愛感情というより家族愛に近い絆で結ばれていたから、通い続けたのだと思います。「戻ってきてほしい」「生きていてほしい」というピュアな思いから出た「また明日」という言葉が彼の命を繋ぎ止めてきた。

 

そんなヒマリのことを裏切れなかったから、「真実」を取ったのでしょう。劇部の皆との青春は輝かしくて、尊くて、「幸せ」で。でも、残酷なことに過去でしかない。いまでも未来でもない。いまと未来を示してくれるヒマリの「また明日」が、彼を現実に呼び戻した。ただ、先述の通り、彼の天秤はちょっと揺らいだだけで、劇部の皆を置いてきてしまった後悔はずっと残っています。だから、二度の別れを経ても、今度は毎日のように夢で出会うことになる。

 

「僕が今日見た夢はこうだ。あの日の部室、舞台の稽古をしてる。皆と」

「皆笑ってる。楽しそうにしてる。僕も笑ってる。でも、僕はこれが夢だとわかっていて、いつか醒めることを知っていて。なので、僕は笑ってるんだけど、いつか目覚めてしまうこの夢の景色を見ながら、涙が止まらなかった...」

 

昏睡状態にいた頃の「夢」とは違い、ヒカルは夢であることを明確に理解しています。一方で部員の皆とヒマリは、意識がなく、ただただ楽しそうに笑っている。ここの島倉りかさんの張り付いたような笑みが「ヒマリじゃない」ことをはっきり表現しているため、仮にヒカルが再び「夢」に逃避したとしても、この場にいるヒマリは助けてくれないでしょう。

 

本当の意味での「生きてる奇跡」を知ったヒカルは、嬉しさよりも苦しさを滲ませていました。彼の生き方は元々自分ありきのものではなく、大好きな皆が周りにいることが前提だから。劇部の大会の脚本候補を忘れた時「でも僕はなんでも」「皆でやりたいことを精一杯やりたい」と言ってたところからも、皆の欲こそ自分の欲、という生き方をしているのがヒカルなのだと思います。

 

だから、劇部の皆を失った彼は、人生の指針を失ったも同然です。周りにいるのはヒマリだけ。いまできることは、リハビリを続けながら、大きな喪失体験と向き合い続けることだけです。先の未来、目標を見出すのにはかなり時間がかかることでしょう。我欲が薄い彼が再び歩み出すためには、大切なコミュニティを新たに見つけることが必要だですが、学生時代にかけがえのない仲間を知ってしまったらそう簡単にはいかないですよね...。

 

正直、彼は再び「夢」の世界に篭ってしまうんじゃないかと思います。それくらいの危うさがあったから、ヒマリは帰り際にわざわざ「また明日ね!」と声をかけた。ぱっと見落ち着いているけど、ひとりでいるときは頭を抱えて目を見開き、涙を流している彼は、いつ気の迷いを起こしてしまうかわからない。そういう意味で、彼を軸とした物語の本当の始まりはここからです。業を背負った彼が旅を続ける中で、新たな「幸せ」を見つけられることを願っています。

 

 

 

*** 

 

主に終盤のヒマリ・ツムギ・ヒカルについて考察してきましたが、序盤から中盤にかけて細かいポイントが多く、全然書き足りません。歌唱曲の歌詞や、台詞回し、個々の細かい遊び(浜ネネ、山ノゾとか)など、枚挙にいとまがありません。筆は一旦置いて、ふせったーやツイキャスにぽつぽつこぼしたりしながら、『森ビヨ』の余韻に浸ります。

 

最後に、BEYOOOOONDSがこの演目を演じた意味について。「永遠」というテーマを絡めた演目は、演劇女子部シリーズでは定番です。『LILIUM』『タイムリピート』も、アイドルという「永遠ではない」者達が演じるからこそ説得力を生む。

 

今回の作品は前述の2作品と比べ、現実と地続きの青春譚だからこそ、余計に生々しく感じられました。事故に遭ってしまった劇部の面々を、そのままBEYOOOOONDSに重ねてしまうこともできる危うさ。舞台の世界に羽ばたこうとする平井美葉さんを引き留めようとするBEYOOOOONDS、という構図を見出した人もたくさんいると思います。実際、千穐楽のMCで西田汐里さんが「12人のBEYOOOOONDSも永遠ではない」という旨の発言をしたというレポートを見かけました。彼女ら自身も、儚い青春譚に描かれた一瞬の煌めきとかけがえのなさをアイドルとしての自分たちに重ね合わせていた。アイドルという職業の「真実」を自ら言葉にするってなかなかできることではないと思いますが、観客を信頼してるからこそ、まっすぐに伝えたかったんでしょう。この舞台で描いてきたことは、BEYOOOOONDSにも当てはまることなんだって。

 

この舞台を経たBEYOOOOONDSはもっともっと大きくなっていくと思います。だから、周りの大人たちも、彼女らにしっかり答えてあげてほしいです。幸先の良いスタートダッシュを切った2019年、停滞を余儀なくされた2020年、『森ビヨ』というきっとグループの歴史に残る1作を演じきった2021年。ここから先、新グループができるからといって、グループの前進を止めないでほしい。「BEYOOOOONDSらしさ」という言葉になんでも包みこんで、売り出し方を見誤らないでほしい。シングル曲にしてもアルバム曲にしてもライブにしても舞台にしても、1作1作が大事であるべきで、捨て枠なんてあってはならない。12人で最後まで駆け抜けてくれることを、ただただ信じています。「奇跡」をちゃんと活かしてください。それが私の「願い」です。

 

 

 

*1:末満健一さんの『LILIUM』はハードな作品ですが、実はギャグ多めで、「アイドル演劇っぽさ」は随所に散りばめられていたんですよね。『TRUMP』シリーズが元々ギャグ成分高めというのも理由の一つですが。一方中島さんのホンにはわかりやすいギャグシーンはほとんどなく、ナチュラルな芝居から出るおかしさで勝負している印象が強かったです